台脚の天板部に銘文があり、「辛亥年七月十日に崩去した笠評君のため、その日、遺児と伯父の二人が造像を発願した」ことが知られる。「辛亥年」については、銘文中の「評」が大化(645〜650)から大宝(701〜704)にかけて使用された用字であることが解明されており、白雉2年(651)に比定できる。また、銘文の内容から、本像は笠評君の死亡当日に造像が発願されたもので、さらにその日のうちに銘記までなされるという興味深い状況もうかがえる。
天衣に鰭状の出を表わし、全体の形を左右対称にまとめることなどは止利派の流れを汲むものといえるが、眉や目を面と面の段差で表わすなごやかな顔立ち、先端を束ね、蕨手をつくらない垂髪、鰭状の出の各先端が後方に反りをみせる天衣など、止利派の造形から一歩ぬけ出した感覚もうかがえる。また、本像は、宝冠に化仏が表わされる観音像として、年紀の明らかなわが国最古の作例でもある。
本体から蓮肉部までと台座反花以下は現在それぞれ別れており(各別鋳の可能性が高い)、反花上面に設けた円形の穴に本体部の蓮肉下端を挿し込み、内部で広げかしめて留めている。本体部は頸部の下辺まで内部を中空とする。この中空部には鉄心が残っており、その下端が蓮肉内部にのぞいている(断面は方形)。蓮肉内には左右に走る大きなバリがあり、その上方に中型土が残存する。鬆は本体部では全体にみられるが、台座反花以下ではほとんど認められない。宝冠の裏面と頭髪部を除くほぼ全面に鍍金が残り(銘文の刻線内にもみられる)、彩色は頭髪に群青、目の輪郭、黒目、口ひげに黒色(墨か)、唇にわずかに朱(あるいはベンガラか)が認められる。
〔銘記〕(台座台脚部)
辛亥年七月十日記笠評君名左(又は大)古臣辛丑日崩去辰時故児在布奈」太利古臣又伯在□古臣二人乞願