重要文化財朝鮮国告身、慶尚道観察使兼巡察使洪履祥伝令幷書状ちょうせんこくこくしん、けいしょうどうかんさつしけんじゅんさつしこうりしょうでんれいならびにしょじょう

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  • (指定名称)朝鮮国告身 万暦二十二年慶尚道観察使兼巡察使洪履祥伝令幷書状 万暦二十二年
  • 3通
  • 紙本墨書
  • (1)縦47.0 横41.6 (2)縦41.2 横47.3 (3)縦52.6 横82.7
  • 朝鮮時代 万暦22年(1594)
  • 九州国立博物館
  • P15012

 朝鮮国王宣祖が毛利家家臣の「萱島木兵衛」(萱嶋喜兵衛)を朝鮮国の武官に任命するために発給した告身(辞令書)1通と、関連する慶尚道観察使兼巡察使洪履祥が発給した関連文書2通。いずれも万暦22年(1594・文禄3)8月から10月にかけて発給された。朝鮮国告身は、国王が木兵衛を武官に任じたもので、四品以上の官僚を国王が任命する「官教」の様式である。「折衝将軍」は武官の正三品上、「龍驤衛」は朝鮮国の軍組織である五衛の一つで、「上護軍」はその武官。年次の箇所には15・16世紀の官教に捺された国王印の朱方印「施命之宝」が捺される。洪履祥伝令は、東萊校生の宋昌世に宛てた書簡。敵情の報告や萱島木兵衛を朝鮮側に投降させた等の尽力を称える。洪履祥書状は、萱島木兵衛からの書簡に対する返書。告身からおよそ2ヶ月後の日付で、告身を授かりながらも態度を鮮明にしない木兵衛に対して、投降を強く呼びかけている。本3通は「文禄の役(壬辰倭乱)」の和議が交渉される最中に発給された。朝鮮を交えずに日明間で行なわれた交渉が膠着状態にある中、毛利氏など朝鮮半島南岸に「倭城」を築いて在番した諸大名の幕下では、朝鮮側の工作等によって逐電・投降する将兵「降倭」が続出していた。『朝鮮王朝実録』(宣祖実録)にはこのような降倭関係の記事が残るが、萱島木兵衛と本3通にかかる詳細な経過も知ることができる。朝鮮に出陣した日本人武将の任官を通じて調略を図る朝鮮側の動向が知られ、興味深い。なお本3通は、昭和初期まで萱嶋家の縁戚である粟屋家に伝来し、『萩藩閥閲録』第3に粟屋八左衛門家文書として収録されている。九州国立博物館では、同じく粟屋家に伝来した近世文書4通とともに「朝鮮国告身関係文書(P15012) 7通」として収蔵している。

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