国宝金剛般若経開題残巻こんごうはんにゃきょうかいだいざんかん

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  • (指定名称)金剛般若経開題残巻〈弘法大師筆/(三十八行)〉
  • 空海筆 (くうかい)
  • 1巻
  • 紙本墨書 巻子
  • 縦28.1 長131.8
  • 平安時代・9世紀
  • 奈良国立博物館
  • 649(書19)

 空海(くうかい)(弘法大師、774-835)が、義浄(ぎじょう)訳『能断金剛般若経(のうだんこんごうはんにゃきょう)』を密教の立場から解釈したもの。開題とは、経典の題目について解釈し、その大要を述べることである。
 『金剛般若経』の漢訳は6種あり、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳が用いられることが多いが、空海がテキストとして使ったのは、唐の義浄訳である。中国・唐代に『金剛般若経』は広く信仰され、その霊験記(れいげんき)(不思議な感応・利益などを記した書)である『金剛般若集験記』も編纂された。わが国でも、すでに奈良時代の官立写経所で大量の『金剛般若経』の書写が行なわれていたが、平安時代に『金剛般若経』信仰はさらに広がりをみせ、唐からもたらされた『金剛般若集験記』の説話は『日本霊異記』や『今昔物語集』にも収められた。
 この金剛般若経開題は京都・醍醐寺の三宝院(さんぽういん)に伝来していたらしい。しかし寺外へ持ち出され、切断されてしまった。現存するのは約150行である。
 本巻(38行)は高松宮家(たかまつのみやけ)に所蔵されていたもので、ほかに京都国立博物館が所蔵する63行やいくつかの断簡(だんかん)の存在が知られている。これらの残巻・断簡の前につながる86行は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。
 弘仁4年(813)10月、藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)は『金剛般若経』187巻の書写供養を行なった。葛野麻呂は遣唐大使となり、延暦23年(804)に空海らと共に唐へ渡ったが、葛野麻呂と空海が乗船した船は暴風雨に逢い、1ヶ月余りも海上を漂流した。このとき葛野麻呂は187所の神々に『金剛般若経』を写し奉ることを誓い、無事を祈った。無事に唐へ着き、そして帰国できた葛野麻呂は、約束通り『金剛般若経』187巻を神々に写し奉った。
 その折、空海は葛野麻呂に代わって願文を執筆しており、『金剛般若経開題』はそのときに作られたのではないかと推測されている。文中には加筆訂正した箇所がみられ、草稿本であることがわかる。

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