蓋表には遠山と桜花漂う水面を渡る一艘の舟、蓋裏には洲浜に老松、祠と鳥居が描かれている。硯箱を収める塗箱に金蒔絵で和歌が記されており、蓋表は比良山地と琵琶湖の風景、蓋裏も琵琶湖西岸にある唐崎神社の松を表わしたものと知られる。遠景と近景の調和がとれた構図に、薄肉高蒔絵と研出蒔絵を使い分け、所々に切金を配し、空間表現のみならず空気や光といったニュアンスまでも巧みに表現している。これにより、特に蓋表は「花さそふ比良の山風吹きにけり こき行舟のあとみゆるまで」(『新古今和歌集』)という歌のこころを、和歌のもつ情趣そのままに描ききっている。またここに見られる抑制の効いた瀟洒な表現は、江戸時代後期に顕著となる意匠感覚の先駆けともとらえられる。
身の見込み中央部(硯の下)に、朱漆でごく小さく「鹽見政誠」の銘が記されている。塩見政誠は江戸時代中期に京都で活躍した蒔絵師で、研出蒔絵を得意としたという。塩見政誠の銘が入った作品には印籠が多く、その作風を検討していく上でこの硯箱が重要な存在になっている。