僧正玄昉(?~746)が天平13年(741)7月15日の盂蘭盆会(うらぼんえ)の日に聖武天皇・元正太上天皇・光明皇后の聖寿無窮と皇太子ならびに諸親王、文武百官、天下兆民の忠孝と三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に沈淪する衆生の救済を願って『千手千眼陀羅尼経』1000巻を書写せしめたうちの1巻であり、現存するのはこの1巻のみである。
『東大寺要録』巻第一の天平13年の項に「七月十五日、玄昉僧正発願、書写供養千手経一千巻」とあることは従来より知られていたが、本巻が出現したことによって初めて、その存在が確認できたものであり、歴史的にみてもたいへん重要な遺品となっている。
残念ながら巻首の部分を欠いており、経文としては109行分が現存している。力強さとしなやかさを合わせ持つ典雅で温雅なその書風は、天平年間の写経生の中でも書法優秀な者によって書写されたことを物語っており、筆致においても奈良朝写経の優品のひとつに挙げられる経巻である。また本文中には平安時代後期の朱のヲコト点・声点、朱墨の仮名などが加えられており、訓点資料としてもよく知られた1巻である。
発願者である玄昉は俗姓阿刀氏、霊亀2年(716)に吉備真備・阿倍仲麻呂らともに入唐して法相宗を学び、天平7年(735)に帰朝した。その際には経論五千余巻を将来し、天平9年に僧正となった。さらには藤原宮子(聖武天皇の母)の病気平癒の功労によって宮廷の尊信を得、政治的にも吉備真備とともに橘諸兄政権の中心人物となったが、天平12年(740)には玄昉と真備の排斥を狙い、太宰府で藤原広嗣の反乱が起こされた。この5年後の天平17年に太宰府の観世音寺に左遷され、その翌年に没した。