長屋王が慶雲四年六月十五日に崩じた文武天皇の冥福を祈って書写せしめた『大般若経』の遺品。和銅五年の発願なので、「和銅経」と呼ばれている。近年の長屋王邸宅跡の発掘調査によって、発願文の末尾にある「北宮」は、長屋王の妃であり、文武天皇の妹でもある吉備内親王(草壁皇子の女)の宮であると推測されるに至った。更に「長屋殿下」とある表現も妃である吉備内親王の側から出た表現と考えることにより、この「和銅経」は吉備内親王の意を体して、長屋王が妃の兄である文武天皇の冥福を祈るために「北宮」で『大般若経』一部六百巻を書写せしめたと考えられる。この写経の最大の特徴は、行を分ける界線が引かれていない無界の写経であることであり、その字すがたは、字粒がやや小さめで、筆線にやや生硬さも見られる。また経文書写の後に一斉に加えられたと見られる発願文は、中国・南北朝時代から隋時代にかけての筆法で、本文より古い書風であるのが興味深い。もと六百巻のうち、この太平寺に百四十二帖、同・常明寺に二十七帖(国宝)、同・見性庵に四十三帖(重文)が現存し、その他巷間に分散するものを合わせれば、二百二十巻余が現存していると思われる。この「和銅経」は、翻訳後五十年の書写であり、おそらくは『大般若経』の最古の遺品と考えられる。