承和元年(834)の空海の奏請(そうせい)によって正月八日から宮中真言院で7日間の修法が行われるようになった。これを後七日御修法(ごしにちのみやしほ)という。十二天像は道楊を守護するために掛けられ、普段は他の道具類と一緒に東寺の宝蔵に収められていた。大治2年(1127)3月、東寺宝蔵は火災にあい、それまで使川されていた絵も焼失してしまう。この時、新調されたのが、本図である。最初、東寺長者勝覚の命で、東大寺僧の覚仁は、小野経蔵(勧修寺)に伝わり、宇治経蔵(平等院)に所蔵されていた弘法大師御筆様に基づいて調進したところ、烏羽院から「疎荒」との批判をこうむり、改めて仁和寺円堂後壁画に基づいて新写したという。前者を甲本、後者を乙本と区分しており、本図は一般に乙本とみなされ、セットになる五代尊像とともに東寺に伝えられてきた。豊かな色彩模様と金箔を細く切った截金の地模様が目を奪い、貴族文化の爛熟期を代表する名品として知られている。