六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のうち、水や食物を得ることができず苦しむ餓鬼の説話を描いた絵巻物である。戦乱が続いた平安時代末期における社会不安や末法思想を背景につくられたと考えられている。
第1段は『正法念処経』に説かれる三十六餓鬼のうちの食水餓鬼が、川の水にもありつけず、わずかに川を渡った人間から滴る水しか飲めないという受苦のようすを描く。第2段も『正法念処経』の内容をふまえたもので、餓鬼は親の供養のため撒かれた水だけが飲めるため、笠塔婆に集まっている。本図の活気あふれる群衆や、人間に気づかれず近寄る餓鬼の不気味でどこかユーモラスな表情は、とくにすぐれた出来映えを示す。第3、4段は『盂蘭盆経』にもとづき、釈迦の弟子のひとりである目連が釈迦に教えを受け餓鬼道に堕ちた母を救うという説話を描く。ただし第4段の絵は詞書とは異なり母がなお貪欲にとらわれるようすを描いている。第5段は『大般涅槃経』中の説話で、ガンジス河の水を飲めずに苦しむ餓鬼たちが、仏の力で水を飲めるようになり、さらに説法によって昇天したことを異時同図法で描く。第6段は『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』にもとづき、釈迦の弟子のひとりである阿難がいつも口から火を吐く焔口餓鬼より苦しみの訴えを聞いて、釈迦に教わった呪文によって餓鬼を救う内容である。絵は阿難と餓鬼が対面するところ。第7段は阿難から餓鬼救済の方法を受け継いだ僧が施餓鬼(せがき)をおこなう場面が表されている。以上のように、餓鬼の受苦のようすのみならず、救済にかかわる説話を題材としていることは注意される。
蓮華王院宝蔵に納められていた「六道絵」の一部とみられ、後白河院(一一二七~九二)が制作に関与したと考えられている。岡山藩主池田家の菩提寺である曹源寺に伝来した。