大正7年(1918)、溜池工事の際、偶然に発見されたものである。発見者からの聞書きによれば、両者は地下60cm程度のところから出土したという。
銅鐸は、小型で、身の主文様がA面は流水文、B面は袈裟襷文というきわめて稀な文様構成をもつものである。銅鐸の変遷過程では4段階のうちの第2段階目(外縁付鈕式)に位置づけられる。一方、銅鏡は、中国系の漢式鏡とは異なり、片寄った位置に二個の鼓形の鈕が並ぶ。鏡背には鏡縁・外区・内圏帯・内区から構成され、縁は断面蒲鉾形を呈し、全体は凹面を成している。鏡面が凹面を成すのは、この種の鏡の大きな特徴である。そして鏡背にはきわめて緻密な幾何学文が鋳出されている。繊細かつ幾何学美にあふれた鏡である。この種の鏡は、朝鮮半島から蒙古・中国東北地方を中心に数多く発見されているが、日本では、これまでに福岡・佐賀・長崎・山口・大阪・奈良・長野の10遺跡11面の出土例しかない。
発見当時、韓国入室里遺跡や山口県梶栗浜遺跡で多鈕細文鏡が銅剣や銅矛と共伴することから、これらの年代観については概ね了解されていたが、銅鐸の年代観についてはまだ定まっていなかった。本例は、銅鐸と多鈕細文鏡がはじめて共伴した例としてきわめて重要であり、銅鐸の年代観を確立する基礎資料、そして銅鐸のみならず銅鏡の埋納の問題を考える重要資料として扱われてきているものである。