茶の湯の表舞台に和物(日本製)の茶陶として最初に登場するのは、信楽や備前といった焼締(やきしめ)の水指であった。初期の焼締水指は茶の湯の器としてつくられたものではなく、種壺などの日常の生活の器であった焼締の壺が、茶の湯の空間に持ち込まれたものであった。
この水指は千利休所持と伝えられる。底の中央には表千家四代の江岑宗左(こんしんそうさ)(1619〜72)が「柴庵(花押)」と朱漆で書き付け、内箱蓋裏には表千家七代如心斎宗左(じょしんさいそうさ)(1706〜51)による「志からき水指 古宗左書付/柴庵 左(花押)」という箱書がある。
長石粒を多く含む信楽独特の土で、胴には大きな亀裂が縦に走り、自然釉がどっぷりと掛かり、裏面の赤く焦げた肌とは実に対照的な景色となる。わずかに口縁としぼった造形は、この水指がすでに日常の器から脱して、水指としてつくられたものであり、室町から桃山へという時代のなかで造形が大きく動き出そうとする時期の作であることを示している。