愛知県の瀬戸市に瀬戸窯が開かれたのは、鎌倉時代の初頭であった。平安時代の名窯である猿投(さなげ)窯の後を受けて、窯が東北に移動し、一時期途絶えていた灰釉も復活させ、輸入された中国陶磁に照準をあてて瀬戸窯は発祥した。瀬戸窯がさらに飛躍したきっかけは、喫茶の風習が中国から伝わるとともに喫茶陶磁が請来(しょうらい)されたことであり、それを写すことによって、陶技は著しく進歩して盛期を迎えた。
この壺は、盛期の瀬戸窯がつくりあげた代表作の一つである。瀬戸窯は12世紀以後の諸窯と歩調を合わせて、なぜか轆轤(ろくろ)技をすてて、粘土紐の巻き上げ法に従って作陶した。この秀作もまた同じ方法によって成形されている。形の手本となったのは元後期に中国の龍泉窯が創作した天竜寺手の青磁牡丹唐草酒海壺であり、文様も本歌に忠実にしたがっている。しかし、ここには中国青磁の重厚荘重な表現はなく、粘土紐の巻き上げによっているため成形には澱(よど)みがうまれ、釘彫りの牡丹唐草文にも強勁さはみられない。それに代わって、温容な伸び伸びとした磊落(らいらく)さが表出され、和様の気分がたっぷりと宿っている。灰釉は純化され、瀬戸窯の製釉技法もすっかり円熟した。