中世を通じて備前国で繁栄した長船派は、刀剣古伝書では近忠が始祖と言われるが、近忠には現存作品がないことから、子と伝える光忠が一派の事実上の祖として考えられている。光忠は鎌倉時代中期の刀工で、映りの立った精緻な地鉄(じがね)に丁子刃(ちょうじば)に蛙子丁子刃(かわずこちょうじば)を交えた刃文(はもん)を特色とする。
この刀は、江戸幕府に刀剣の研磨や鑑定で仕えた本阿弥(ほんあみ)家の13代、光忠(こうちゅう)が光忠(みつただ)の作と極めたものである。磨上(すりあ)げられて寸法が短くなっているが、身幅が広く猪首鋒(いくびきっさき)となった豪壮な姿であり、地鉄(じがね)は、板目肌がやや肌立って乱映り(みだれうつり)が鮮明に立ち、刃文(はもん)は、丁子刃におおきな蛙子丁子刃(かわずこちょうじば)や袋丁子刃(ふくろちょうじば)、加えて飛焼(とびやき)が交じり、華やかなものとなる。徳川将軍家に伝来した。