江戸時代前期には、紙製や木彫りの人形に経絡を引き、経穴(俗につぼ)を点して学習する方法が確立した。この種の人形は「銅人形」とよばれ、永和4年(1378)に竹田昌慶によって明からわが国にもたらされたといわれている。経絡とは、鍼灸治療の基礎になっているもので、人体にある経脈のなかを気血が循環して生理機能をつかさどっており、その脈に属する経穴に鍼灸を施すことで治療を行うという、中国医学の基本を構成する重要な概念の一つである。
この銅人形は、足裏に記された銘文によって、寛文2年(1662)、和歌山藩医であった飯村玄斎(?~1699)らが考証にあたり、岩田伝兵衛らが制作に関わったことがわかる。構造は、体の表面を銅で網目状に鋳造し、体内には木製で着色を施した五臓六腑と木骨を納めており、網目を通して内部の様子が透けてみえるとともに、前後と後頭部の三か所にある開閉式の窓により体内が観察できる。木骨の形状などから、当時の西洋医学の知識を結集したものではないかと考えられる。同様の銅人形は、ドイツのハンブルグ州立民俗学博物館にも所蔵されており、その足裏の銘文から寛文9年(1669)に飯村玄斎が関わって制作されたことが知られる。
なお、収納箱の蓋に貼付された覚書によると、寛政9年(1797)に幕府奥医師の山崎宗運が閲覧するに際して、修理が行われている。本像は、明治10年(1877)3月に、旧伊予西條藩主であった松平頼英より内務省博物局(東京国立博物館の前身)に寄贈されたものである。