日本天台宗の開祖である最澄(さいちょう)(伝教大師、767-822)の手紙。宛先は京都の高雄山寺(たかおさんじ)(現在の神護寺)の空海(くうかい)(弘法大師)のもとにいた愛弟子の泰範(たいはん)。最澄の自筆の手紙としては現存する唯一のもので、「久隔清音(久しく便りがないので)」と書き出しているところから「久隔帖(きゅうかくじょう)」と呼ばれる。尺牘(せきとく)とは漢文の手紙のことである。
弘仁4年(813)11月23日、最澄は空海に対して手紙を書いた。『文殊讃法身礼(もんじゅさんほっしんらい)(一百廿礼仏(いちひゃくにじゅうらいぶつ))・方円図(ほうえんず)・注義(ちゅうぎ)』と『釈理趣経(しゃくりしゅきょう)』の借用依頼のためである。これに対して空海は、密教を文章だけで学ぼうとする最澄の態度を厳しく批判し、『釈理趣経』の貸与を拒絶する返事を書いた。これを読んだ最澄が11月25日に泰範へ宛てて書いたのが「久隔帖」である。内容は『文殊讃法身礼(一百廿礼仏)・方円図・注義』の意味を空海に聞いて知らせてほしいということだった。
最澄はこれ以前に空海から詩を贈られていた。最澄はお返しの詩を作ろうと思った。しかし詩の序文に内容のわからない書物の名があった。『文殊讃法身礼(一百廿礼仏)・方円図・注義』である。何事にも誠実な最澄は、適切なお返しの詩を作るため、その本を読んでおきたかった。『釈理趣経』の借用はあきらめるにしても、不明の本の内容だけでも泰範に聞いてもらおうと考えたのである。
このとき最澄は47歳。空海は40歳。文中、空海を指す「大阿闍梨(だいあじゃり)」の箇所で行を改めるなど、年下の空海に対して礼を尽くしており、最澄の真摯な人柄をうかがわせる。文字にも品格の高さが感じられる。