千手観音は、千の手と目であらゆる人々を救う観音で、奈良時代より信仰を集めた。彫刻や絵画では、主となる四十二の腕と場合によっては小さな手を多数表わし、千手とするのが通例である。本図は平安時代に制作された貴重な作例であり、四十二の腕と腕の間や背後に小さな手が円形に配される。向かって右下には婆藪仙(ばすうせん)、左下には功徳天(くどくてん)が描かれ、坐像と立像の違いがあるものの、胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)虚空蔵院にみられる尊像構成である。衣や光背、台座など随所に用いられた截金文様が華やかで美しく、色調も繊細である。
本図は川崎造船所を創立した川崎正蔵(かわさきしょうぞう)の旧蔵品として知られる。没後の大正3年(1914)に刊行されたコレクション目録である『長春閣(ちょうしゅんかく)鑑賞』では、第一集の第一番目に掲載されており、コレクションを代表する作品であったことがうかがえる。その後、昭和2年(1927)の金融恐慌によりコレクションの多くは散逸してしまう。当館には国立博物館となって間もない昭和23年に収蔵された。
(古川)
『国宝 東京国立博物館のすべて:東京国立博物館創立一五〇年記念 特別展』毎日新聞社他, 2022, p.277, no.5.