西安市宝慶寺の仏殿及び仏塔に嵌入されていた石仏群のうちの一点。この石仏群は元来、唐の国号を一時周と改称した女帝・武則天(ぶそくてん)(則天武后、在位690~704)が側近の僧・徳感(とくかん)を総監督として長安三年(703)から翌年にかけて造営させた光宅寺七宝台を荘厳していたものである。清朝初期重修の六角七層塔に今もある六点を含めて現在三十二点が知られ、うち十一面観音像は七点ある。いずれもインド風をよく消化した典型的な唐様式を示し、当時の長安の官営工房の基準作として、非常に価値が高い。本品は細長い石灰岩の一石を彫りくぼめて仏龕をつくり、宝珠形の頭光を背負って蓮台上に直立する十一面観音像を浮彫する。丸顔に潤いを含んだ眼差しを浮かべた表情は気品に満ち、下半身に薄い着衣が密着してすらりとした立ち姿をみせる。頭上面は上から順に一・四・五面の構成で、右手を屈臂して「滅罪」と記す印章をとり、左手を垂下して掌を前にする。宝慶寺の十一面観音像は様々な持物をもち、本像の印章の場合、『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』(千手千眼陀羅尼経)所説の千手観音の四十大手に含まれる「宝印手」と何らかの関係を有するかと思われる。ただしそこに「滅罪」の二文字が明記されている点は、東大寺修二会(しゅにえ)に代表される十一面悔過の儀礼を連想させるもので、武周期における変化観音信仰の実態を考える上で、特に注目される。なお光宅寺は儀鳳二年(677)、勅命で仏舎利万余粒が発掘されたという光宅坊に立てられた寺院で、この舎利出土の話は則天武后が帝位につく口実作りのために撰述された『大雲経疏(だいうんきょうしょ)』にもみえ、七宝台及び石仏群の造立背景に、仏教を利用して政権翼賛を行わんとする明確な意図が存したことが指摘されている。