等身大の観音菩薩像であるが、髻(もとどり)や地髪に頭上面(ずじょうめん)を取り付けた痕跡が認められるため、本来は十一面観音像であったとみられ、京都市上京区・清和院(せいわいん)に伝来した。かつては、鴨川西岸の感応寺(かんのうじ)に祀(まつ)られていた。貞観年中(859~877)に一演僧正の建立と伝えられる感応寺は、河崎観音堂とも称され、河崎観音として信仰を集めていたが、中世末には退転し、本像は清和院に移された。近世には、洛陽三十三観音のひとつとして庶民の信仰を集めた。
宝髻(ほうけい)を結い、天冠台(てんかんだい)を戴(いただ)く。額中央に第三眼を表すが、後補である。条帛(じょうはく)・裙(くん)を着け、天衣(てんね)を懸ける。左手は屈臂(くっぴ)して持物(じもつ)を執り、右手は臂をわずかに屈して下げ、掌を前に向けて第一・二指を捻ずる。腰をわずかに左に捻り、右脚を小さく踏み出し、蓮華座に立つ。髻より足枘(あしほぞ)までを通してカヤの一材から彫成する。内刳(うちぐり)は施さない。現状では枘(ほぞ)立ちとするが、もとは蓮肉(れんにく)まで本躰(ほんたい)と共木であった。
腰高で厚みのある体軀(たいく)、翻派(ほんぱ)式衣文などの要素は平安時代前期の一木彫像の特色を示している。顔立ちは頬が固く引き締まり、承和年中(834~848)頃の作例に通じるものがあるが、衣文は簡にして形式的な整理がなされているためその制作時期は9世紀後半と考えられる。一木彫像(いちぼくちょうぞう)としての量感と運動感のある姿態が破綻なくまとめられている本像は、平安時代前期彫像の完成期における典型的作例といえる。