通肩(つうけん)に衲衣(のうえ)をまとい、両手を屈臂(くっぴ)し、左手は掌を上に向けて差し出し、右手は掌を正面に向け、四脚座上の蓮華座に両足を開いて立つ。肉髻(にっけい)と地髪部にはそれぞれ頭髪を渦巻き状に表し、耳朶(じだ)は環状とせず、三道相(さんどうそう)を表さない。手には曼網相(まんもうそう)を表す。四脚座の各面内側を蕨手(わらびて)形に表し、正面には鋸歯文(きょしもん)、水瓶を刻出する。
銅造で像本体と台座を一鋳(いっちゅう)とし、鍍金(ときん)仕上げとする。鋳技は優秀である。総高53.5cmに達し、北魏時代の金銅仏としてはかなり大型の像である。背面ほぼ中央に方形(縦3cm、横2cm)の窓が開けられており、ここに何らかの納入品が納めていた可能性がある。
四脚座の背面から左側面にかけて銘文が刻まれており、北魏の太平真君4年(443)に、現在の中国・河北省博野県の人が、皇太子のため、そして父母など一族のため、弥勒に法を受け、道を得ることを願い造立した旨の造立事情が知られる。当時は太武帝(たいぶてい)の治世(在位423~452)であったが、太平真君7年には道教を重用するあまり仏教を弾圧するという大規模かつ苛烈(かれつ)な廃仏政策(はいぶつせいさく)が断行された。そのため、同年をさかのぼる仏像の遺例は極めて少なく、この像の存在は貴重である。
体がすらりと伸び、両手両足を大きく左右に張って堂々と構えた姿や、薄手の衲衣が体に密着し、その肉体のたくましさが強調されている点は、中国・甘粛省の炳霊寺(へいれいじ)石窟第169窟諸像の作風と共通するものであり、インドのグプタ様式など、より西方域の仏像様式からの影響を示している。一方、微笑する顔立ち、卵形の頭部、二・三本の稜線で構成される衣文表現など、北魏の復仏以降の金銅仏と共通する特徴もすでに見出すことができる。
いずれにしても、中国北魏時代の洗練された大型作品として、また中国古代仏像の変遷をたどるうえで極めて重要な遺品である。