元徳元年7月、後醍醐天皇(1288~1339)が綾小路有頼の死を悼み、7歳にして遺児となった敦有に秘曲および家伝文書の相伝を許した消息。綾小路家は郢曲の名家で、有頼は嘉暦3年(1328)10月、師範として天皇に催馬楽の秘曲を伝授したとき、上位の者をゴボウ抜きにして正三位に叙されるほどの名手であった。
天皇とおなじく有頼の弟子にあたる洞院実世が使者にたてられているため、この消息は実世の父にして天皇の信任厚かった洞院公賢にあてたものとみられる。無事に相伝を終えた敦有は、建武2年(1335)3月、後醍醐天皇の中宮が出産したことをうけ行われた御遊で、はじめて拍子をつとめ、堂々とした所作から綸旨を賜ったという。当時、流行していた宋風様を取りこんだ雄渾な書風が光るのはもちろん、名家の断絶せんとする状況に心を痛めていた姿は、音楽に深い関心をよせていた天皇の一面を明らかにする。