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経帙は経巻を束ねて包むために用いたもの。細い竹籖(たけひご)を、各色に染めた撚糸(よりいと)で暈繝(うんげん、濃い色から淡色へと暈かしてあらわすこと)に編み上げていたが、表面は擦れてほとんど欠失するため文様はわからない。この経帙の四周は、後世の作と思われる紅地の蓮唐草文と輪宝(りんぽう)雲形文の金襴による縁(ふち)が付けられ、裏面には淡縹(うすはなだ)色の裏裂を貼って補修されている。
裏裂の銘文には、建久年間(1190~1199)に源頼朝より寄進されたが、大破のため宝永4年(1707)12月に修理が行なわれたことなどが墨書されており、金襴もその修理の際に付け替えられたものであろう。なお、奈良・法隆寺には、同じ銘をもつ経帙が2枚遺っており、もとはこれらが一具であった可能性も考えられている。また、宝永年間には仏名経(N-14)、古今目録抄写(N-19)などの修理が行なわれている。
経帙の遺品はすでに奈良時代にみられ、正倉院には「天平十四年云々」銘を編み出した精巧な「金光明最勝王経帙(こんこうみょうさいしょうおうきょうちつ)」が著名で、鎌倉時代の作になるものとして、神護寺の経帙が遺っている。本経帙にみられる文様は判別できないが、太細の痕跡は神護寺の経帙に施されている太細の飾り編みの文様から、当初はこのような縞状にあらわされた文様が編み出されていたのであろう。
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