吉野川沿いの丘陵尾根斜面から出土したと推定されるが、詳細は明らかではない。全面に鍍金を施した銅鋳製短冊形の墓誌で、表面の外周に界線をめぐらし、周縁は魚々子地〈ななこじ〉とする。2条の罫線をひいて3行の墓誌銘を刻むが、それによると文武天皇以来、4代の天皇に仕えた河内国石川郡山代郷(現在の大阪府南河内郡東南部)出身の山代忌寸真作が戊辰年11月25日に、また妻の蚊屋忌寸〈かやのいみき〉秋庭が壬戌年6月14日に卒去したとあり、夫婦合葬の墓誌であることが知られる。山代真作は『正倉院文書』の養老5年(721)の戸籍にもみえ、戊辰年は神亀5年(728)、壬戌年は養老6年(722)にあたるので、真作の死に伴い、秋庭の遺骨が真作の墓に改葬されたものとみられる。