国宝銅製骨壺どうせいこつつぼ

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  • (指定名称)文祢麻呂墓出土品
  • (文祢麻呂墓出土品 のうち)
  • 奈良県宇陀市榛原区八滝 文祢麻呂墓出土
  • 1個
  • 奈良時代・慶雲4年(707)
  • 東京国立博物館
  • J-39202

 江戸時代後期の天保2年(1831)、大和国宇陀郡八滝村で耕作中の農民が発見した火葬墓の一括出土品。土中から出てきた銅製の箱に、墓誌を刻んだ銅板が納められ、かたわらからは金銅製の壺が出土し、その中には火葬骨の灰が詰まったガラス製(緑瑠璃)の壺が入っていた。また銅箱や金銅壺の周囲には多量の木炭があったという。こうした発見の経緯は、詳しく書かれた代官所の調書によって知ることができる。
 出土した墓誌から、慶雲4年(707)の9月に亡くなった文祢麻呂の墓であることが判明した。文祢麻呂は渡来系の西文(かわちのあや)氏から出た武人で、『日本書紀』や『続日本紀』にもその名が見られ、壬申の乱(672年)で大海人皇子(おおあまのおうじ。後の天武天皇)に従って活躍し、没後に正四位上を贈られている。
 火葬の習慣は仏教の伝来とともに伝わり、やがて墓に墓誌を納める大陸の風習も取り入れられた。文祢麻呂の墓誌は、火葬墓に伴う墓誌としては、年代が明らかな最古の例である。また、火葬骨を納める骨蔵器に緑瑠璃壺が用いられるのはきわめてまれで、外容器として用いられた金銅壺の優品とともに、壬申の乱の功労者にふさわしい埋葬法であったといえよう。
 墓誌は、鋳銅板の表面に「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻/呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」の銘文が刻まれている。外容器に用いられた金銅壺は、低い高台の身と、宝珠形のつまみがついた蓋からなり、内部には緑瑠璃壺を包んでいた布の痕跡があった。緑瑠璃壺は平底の身に、やはり宝珠形のつまみをもつ蓋が付いている。
 遺灰をガラス容器に納め、容器を布で包んでから外容器に収納する方法は、仏舎利(釈迦の骨)の納置法に準じていることが知られる。

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